ルイス・デ・アルメイダ |
ルイス・デ・アルメイダLuis de Almeidaは1525年、リスボンで生れ、医学校で外科を専攻しました。1548年に貿易商人としてインドに渡りましたが、その船中でキリスト教のイエズス会員の宗教的奉仕活動に感銘を受けました。以来、キリスト教の日本布教に経済的援助を続け、後には自分も日本イエズス会に入会しました。1552年に日本に渡来し、私財を献じて1557年豊後府内(大分)に育児院や本格的な洋式の病院を建てました。アルメイダの献身的努力は、日本人の深い信頼を集め、次第に遠く離れた所からも受診者がやってくるようになりました。 1558年アルメイダは外科を主とした臨床講義により洋式医学教育を始めました。これは日本最初の洋式医学校です。そこには手術場を兼ねた臨床講義用のバルコニーが設けられました。これは当時の日本人医者がアルメイダの治療をキリシタンの魔法だと中傷していたのを打ち消すためでもありました。 アルメイダは平戸、横瀬浦、有馬(島原半島の口之津)、五島を巡回し、布教と医療を行いました。五島では領主の五島純定の治療に当たり、重い熱病に罹っていた純定を全快させました。彼は西洋医学の診断学を用い、検脈や検尿をし、薬を投与し、これまで五島で行われていた漢方医学や祈祷を主とする呪禁医術を圧倒しました。長崎では領主長崎純景の保護の下で布教所を設けて、布教と医療を行っていましたが、イエズス会は布教と医療を分離することになり、彼は布教に専念したともいわれています。 アルメイダの外科の技術が優れていたことは、当時のイエズス会の多くの通信に、一致して手術の天才と称賛されていることからも明らかです。解剖学的な知識はモンペリエ大学解剖学教授フランソワ・ラブレーの系列であったといわれています。 アルメイダはその後に司祭に昇進し、天草修院長になり1583年(天正11年)そこで没しました。 |