大宝律令の医疾令 | |||
大宝律令の中に医療制度の法令である『医疾令』が定められ、わが国の医療制度上画期的なものでした。 宮内省に置かれた典薬寮が医疾令に基づいて医学、薬学の教育と臨床的な活動を受け持つ総合大学のような役割をはたすことになっていました。またその教育は大学と国学に分れ、大学は典薬寮の学校で薬師を姓とする者、三世医術を伝習した名家の子弟、あるいは人員に余裕があれば、庶人の聡明なる者に限って入学を許され、国学は国ごとにおかれました。 医生の課業・員数・修学年限は、 | |||
大療(内科) 創腫(外科) 少小(小児科) 耳目口歯 針生 按摩生 呪禁生 女医 薬園生 | 12人 | 7年 | |
です。 針生は別として毎年医生合計20名を採用し、この官医を全国に配置するようになっていました。 大宝令の中の官位今による宮中医師には、 典薬頭 内薬正 典薬 侍医 典薬助 医博士 典薬允 内薬佑 医師 針博士 薬園師 太宰医師 按摩博士 衛門博士 左右衛士医士 按摩師 左右兵衛医師 典薬大属 典薬少属 内薬令史 などがあり、医師は官名であり、官史でない医師は医人と称されていました。歯科が独立してあるのではなく、「耳目口歯」という一科に包含されているて、これはこの時代の歯科医療は医師がその業務の一部として担っていたということです。 大宝律令の『医疾令』とは医療に携わる医師を官学で養成し、そこで育成された官医を諸国に配置して医療に従事させようとする医療の官営、医人の官吏化であり、医事を官僚制度の下におく医療の国有・国営化を目ぎしたものでした。 | |||
しかしあまりにも理想的すぎ、実際の面では十分に機能しなかったといわれています。 |