旧石器 | 縄文 | 弥生 | 古墳 | 飛鳥 | 奈良 | 平安 | 鎌倉 |
室町 | 戦国 | 安土桃山 | 江戸 | 明治 | 大正 | 昭和戦前 | 資料展示 コーナー |
世界の歯科事情 | 日本の歯科事情 | 長崎の歴史と歯科事情 | |
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旧石器時代 | 旧石器時代、歯を抜いたり歯を削ったりする習慣がありました。 |
<旧石器時代の歯科事情> 宗教的、装飾的、他の部族への威嚇的理由のために、歯を抜いたり歯を削ったりする習慣がありました。 |
北松浦郡吉井町の福井洞窟で細石刃や石器が発見されました。 |
縄文時代 (~B.C.800年) |
B.C.5000年頃パピロニアの王家の図書館でみつかった粘土板にむし歯の原因が“歯の虫”であるとの記述があります。 B.C.4000年頃エジプトのミイラが歯槽膿漏に罹っていました。 B.C.3000年頃メソポタミアの古墳から爪楊枝が発見されました。 B.C.2000~3000年頃エジプトのミイラの歯に黄金が詰められていました。 B.C.2000年頃バビロニアのハンムラビ法典には外科医術についての報酬のことが書かれています。 B.C.1700年頃エジプトの『パピルス・エーベルス』に歯の疾患と治療法について書かれています。 B.C.1500年頃中国の甲骨文字に『歯』のもとになる文字が出現しました。 紀元前450年頃古代エジプトでは歯科医療は医師によって行われていました。 B.C.460-450年ころ生まれたヒポクラテスが著した『ヒポクラテス全集』に、歯のでき方、萌出、歯や口の病気とその治療法が述べられています。 ケルズス(B.C.25-A.D.50)が著した『医学De re Medicina』の中で抜歯鉗子を含めた外科器具について説明し、むし歯の治療法や口腔衛生の必要性を説いています。 A.D.47年頃、クラウディウス帝の侍医であったラルグスは、歯の虫がむし歯の原因であり、むし歯の治療法として薫蒸法を提唱しました。 A.D.130年頃ローマ人は、口の病気の治療や抜歯などに加えて、むし歯に金冠をかぶせ、固定ブリッジで歯が無くなった部分を補い、また総入れ歯や局部入れ歯も製作していた。 古代ギリシャ時代以後、歯科医療は原則として外科医によって行われていました。 |
<縄文時代の歯の事情> 前期縄文人は現代日本人よりもむし歯は少なかっようですが、歯の摩耗が多かったようです。 縄文中期以降は逆にむし歯が増え、歯の摩耗が減少してきました。これは軟かい食物を食べるようになったからです。 この時代も歯を抜く習慣がありましたが治療の目的ではありませんでした。 |
長崎の各地に縄文遺跡(泉福寺洞穴、つぐめのはな遺跡、脇岬遺跡、原山遺跡、など)が点在しています。 縄文時代末期には、朝鮮半島との文化的交流が行われました。 |
弥生時代 (B.C.800年~ A.D.300年) |
A.D.131年ガレヌスはが生まれ、歯の解剖や病理、治療について記述しました。 3~6世紀、中国六朝時代の医書、葛洪の『抱朴子』の中に早朝300回以上歯をたたくと歯が丈夫になる述べています。 |
<弥生時代の歯の事情> 弥生人は縄文人以上にむし歯に苦しめられていました。「お歯黒」の習慣が始まりました。 |
対馬の塔ノ首遺跡、壱岐の原の辻遺跡、田平町の里田原遺跡、など各地に大規模な集落が形成されました。 大陸との交流がさらに盛んになりました。 |
古墳時代 (3世紀中期~6世紀頃) |
お歯黒をした埴輪が出土しました。 |
対馬美津島町の曽根古墳群や東彼杵郡のひさご塚古墳など前方後円墳が作られました。 |
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飛鳥時代 (6世紀~8世紀) |
610年中国で『諸病源候論』が書かれたといわれていますが現存していません。この書は陰陽、五行、十二経絡の考え方に立った各種の病名をあげて症状や病理と診断について書かれていたそうです。 |
701年(大宝元年)わが国最古の法令『大宝律令』や『養老律令』の『医疾令』に定められた医学生の教育内容の中に耳目口歯科と明記され、耳、目、口、歯は一つの科として医師が行うことになっていました。 |
664年対馬・壱岐などに防人が置かれました。 |
奈良時代 (710年~794年) |
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平安時代 (794年~1185年) |
アラビア医学の代表者の1人ラーゼス(850-926)は著書『アル・マンスールの書』中で、歯の解剖や下顎の運動、歯科療法について詳細に論じました。 ラビア医学の代表者の1人アヴィセンナ(-1037)『医学の正典』を著し、歯科治療についても著述しました。 ラビア医学の代表者の1人アブルガルジス(1050-1123)『外科学』の3巻を書き、歯科治療についても著述しました。歯石の除去を初めて行い、歯科治療には焼灼法を用いました。 アヴィンゾアル(1113-1162)歯科治療に関しては、歯磨き剤や燻蒸消毒法の処方、顎骨骨折の治療などについて述べました。 1092年ローマ法王の布告によって「司祭や修道士たちはヒゲを剃っていること」が定められました。その結果、床屋職人たちが修道院の中で働く機会が増えました。 1163年トゥールの勅令で、修道僧の手術がすべて禁じられました。修道僧の下で手術を手伝っていた床屋は、床屋外科医と呼ばれ、潟血や接骨、抜歯も行うようになりました。 |
<平安時代の歯科事情> 朝廷においてのみ、歯科治療が行われていました。歯痛を抑えるために穿刺を繰り返したり、お灸をすえたり、抜歯も行いました。時に加持祈祷が行われました。民間では、巫女が治療を目的として抜歯を行った記録があります。平安末期には口腔清掃の手段として、うがいが行われました。この時期朝廷医と丹波康頼が活躍しました。 |
994年(正暦5年)大村氏の祖が誕生しました。 1069年(治暦5年)松浦氏の祖が誕生しました。 |
877年(元慶元年)長寿をお祝いする会である「尚歯会」が日本で初めて行われました。 935年(承平5年)に完成した紀貫之の『土佐日記』に長寿を祈る「歯固」の儀式について記載されています。 984年(永観2年)朝廷医丹波康頼は現在残されている日本最古の医書とされている『医心方』を編纂しました。その中にむし歯や歯槽膿漏の治療の事も記載されています。 |
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鎌倉時代 (1185年~1333年) |
6~17世紀ヨーロッパでは医学的な教養も訓練も受けない「香具師」によって広場で抜歯が盛んに行われるようになりました。このころの歯科治療はまだ抜歯が主体で、庶民の歯科手術はこの香具師たちの手にゆだねられました。 |
<鎌倉時代の歯科事情> 朝廷や幕府の中では、口歯咽喉科が歯科治療を行っていました。僧医は庶民の間で医療や慈善事業を行いました。歯の清掃道具として歯木(楊枝)が登場しました。この時代の歯科治療は抜歯が重要でした。女子の風習だったお歯黒が男子にも見られるようななりました。 |
平安末期から鎌倉時代、丹治比氏一族が長崎半島を支配していました。 鎌倉幕府の御家人深堀氏が戸町浦の地頭に任ぜられました。 |
1223年(貞応2年)宋に渡った禅僧道元禅僧が楊枝を使用したエピソードが残っています。 1279年(引安2年)『沙石集』の中に日本初めての営利目的の歯科開業医的な人物として「歯取唐人」が描かれています。 |
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室町時代 (1338年~1493年) |
1343年フランスの外科の祖といわれる医師ギィ・ド・ショーリアク(1300-70)は『外科医術全集』を著しました。歯科施術者(床屋、歯大工、歯技師)と外科医の関係や歯科治療について述べました。 15世紀初頭ヴァレスクスは歯科学について示していますが、ギィ・ド・ショーリアクに基づく内容でした。 15世紀初頭ピエトロは『外科書、6巻』の中に歯科学について著されています。 15世紀初頭モンタグナナは歯痛には樟脳とアヘンを混合した薬剤を使うと良いとしました。 15世紀半ばジョアンネスは医学書の中で歯の疾患について詳しく述べています。 |
<室町時代の歯科事情> この時期に朝廷では、丹波家が口科専門医てして確立していました。歯の清掃道具として歯木(楊枝)が一般的になりましたが、歯磨きという概念はありませんでした。男女共にお歯黒の風習がいよいよ盛んになりました。 |
長崎は在地土豪の長崎氏の所領でした。 |
1390年(明徳元年)頃丹波兼康は朝廷の医官を退いた後、民間に下り咽喉口科を開いたと言われています。 |
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戦国時代 (1493年~1573年) |
レオナルド・ダ・ヴインチ(1452-1519)は、自ら30体もの人体解剖を行い、詳細な人体解剖図を残し、頭蓋骨についても研究しました。 解剖学のヴュサリウス(1514-64)は24歳の若さで解剖学と外科の教授になりました。『六枚つづきの解剖図』を出版し歯や顎について著述しました。 床屋外科医出身のアンプロアス・パレ(1517-90)によって外科は内科とならぶ地位に引き上げられました。歯科学については兎唇の手術や歯牙の再植を行い、補綴分野でも隣接する天然歯に金の針金でくくり用いられたと思われる骨や歯牙から作られた人工歯を有するブリッジが図示されています。 |
<戦国時代の歯科事情> 口科専門医の祖といわれる丹波康頼が朝廷で活躍しました。丹波一族は、このころから口中専門医家になり、その子孫は兼康家・金保家として江戸時代まで口中科を受け継ぎました。治療法は自家秘伝で一般庶民に広まる事はありませんでした。 |
1550年(天文19年)長崎県の平戸にポルトガル船が入港しました。それ以来、毎年季節風に乗って平戸にポルトガル商船が貿易にやって来るようになりました。 1558-92年(永禄時代)長崎氏は大村純忠の家臣となり、長崎は大村藩の支配下になりました。 1563年(永禄6年)大村純忠は洗礼を受けキリシタン大名になりました。 1567年(永禄10年)ポルトガル船が長崎に来航しました。 1571年(元亀2年)大村純忠と長崎甚左衛門が協力して長崎港を開港し、南蛮貿易が始まりました。ポルトガル船が初めて入港しました。 |
代々の医家として仕えた丹波家の丹波兼康は口科専門医の祖といわれています。1517年(永世14年)に医官を退き、民間で口中科の医業を開いて名声をひろめました。『兼康氏秘伝法』を原本とする『兼康口中療治秘抄』『兼康歯苔』を著しました。 兼康の甥に丹波親康は典薬頭にまで昇進し、1531年(享禄4年)に自家秘伝を『口中秘伝』として書き残しました。 金創医(外科医の呼び名)は口中の疾病も同時に扱っていました。この時代の有名な鷹取流外科の祖である鷹取秀次が著わした『外科新明集』に歯病につい記述しました。 1538年(天文7年)に74才で没した仏姫中岡ティの上顎の木製床総入れ歯が現存する最古の入れ歯です。 |
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安土桃山時代 (1573年~16003年) |
<安土桃山時代の歯科事情> 安土桃山時代末期にはそれまでの口歯咽喉科から口中科が確立されましたが、朝廷の内部に止まっていました。この時代以降、仏像彫刻家が義歯を作るようになりました。これは仏像の製作を作る機会が減った事と関係があるようです。彼らを義歯作りを専門とするようになりました。 男子のお歯黒はすたれて行きましたが女子のお歯黒は後世まで続きました。 この時代初めて西洋医学が日本に直接入ってきました。 |
1574年(天正2年)大村純忠は領内の寺社を破却し、全領民6万人を強制的に洗礼させました。 1579年(天正7年)大村純忠は長崎と茂木をイエズス会に寄進しました。長崎は教会領になりました。 1582年(天正10年)天正少年使節が派遣されました。 1584年(天正12年)有馬晴信は浦上村をイエズス会に寄進しました。 1587年(天正15年)豊臣秀吉がバテレン追放令を出しました。 1588年(天正16年)豊臣秀吉が直轄地として長崎を没収しました。 1592年(文禄元年)豊臣秀吉が長崎奉行を置きました。 1597年(慶長元年)豊臣秀吉の命令によって26人のカトリック信徒が長崎で処刑されました。 |
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1552年(天文21年)ルイス・デ・アルメイダが日本に渡来し、1557年豊後府内(大分)に育児院や本格的な洋式の病院を建てました。また外科を主とした臨床講義により洋式医学教育を始めました。 |
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江戸時代 (1603年~1867年) |
1723年近代歯科医学の父祖といわれパリ外科医会の会員であるピエール・フォーシャルが『外科歯科医Le Chirurgien Dentiste』と題した歯科治療に関する著名な論文を発表しました。 1728年ピエール・フォーシャルがに初めて上顎総入れ歯を作ったといわれています。 1755年時点で、パリ外科医会に歯科専門の外科医が30人所属していました。しかし歯科医療というものが床屋外科医の業務であったと同時に、歯大工、歯技師といったさまざまな種類の非医師もまた歯科医療の担い手でした。 1756年フィリップ・パッフは『人の歯と其の疾患』を刊行しました。 1771年スコットランドの外科医ジョン・ハンター(1728-93)が『人間の歯の自然史とその構造、使用、形成、成長、疫病の説明』を著わしました。 1789年米国大統領に就任したワシントンは、床が象牙、人工歯は自分の抜去歯牙でできた義歯を使用していました。 1820年頃アメリカは人口が約960万でしたが、歯科専門の医師はわずか100人にすぎず、歯科医療はその大部分が非歯科医によって行われていました。 1840年アメリカに世界最初の近代的な歯科医学校ボルチモア歯科医学校を外科医がハリスによって創設されました。 初期の口腔外科医たちは歯科医師と医師の両資格をもっていました。 1844年ウェルズ(アメリカの歯科医)が笑気(亜酸化窒素:ガス麻酔薬)を用いた全身麻酔下で抜歯を施行しました。 1846年 モートン(アメリカの歯科医)がエーテル麻酔を用いて口腔外科手術を施行しました。 現在のような口腔外科は、アメリカの外科医プーリへン(1810-57)が祖だと言われています。 |
<江戸時代の歯科事情> 朝廷では丹波家、幕府では丹波家の流れをくむ金保家が代々口科専門医として活躍しました。平安時代から続く口中科の医学知識は、朝廷や幕府の内部に止まっていました。 房楊枝と呼ばれる歯ブラシが使用されるようになりました。一般庶民の歯科治療は本道医(内科医)や金創医(外科医)が行っていました。その他に歯医、歯医者、牙医、口中医師、歯薬師などと呼ばれる医師たちが、下級武士や一般庶民の歯の治療に当たっていました。 こういった医師とは別に全く医師でない香具師(歯抜師、入歯師)という人たちも歯の治療を行っていました。 江戸時代前半までの治術方法は、現在の治療方法と違い、①薬物の内服や塗布、②手術として刺針法や抜歯、焼灼法、などが応用されました。直接むし歯に対して積極的に治療を試みることはありませんでした。西洋の歯科技術に比べれば劣っていましたが、義歯と抜歯に関しては優れていました。 木製入れ歯が登場しましたが作ったのは入歯師と呼ばれる人々でした。 |
長崎は天領となり江戸幕府の直轄地となりました。 1608年(慶長13年)イエズス会の外科医アルメイダが創設した洋式の慈恵病院とミゼリコルディア(慈善事業団体)が長崎に開設されたました。 1614年(慶長19年)大禁教令でキリスト教会や病院が破壊されましたが、長崎のミゼリコルディアは破壊を免れ、「慈悲屋」と名を変え親しまれました。 1615年(元和元年)ルソンから医学を学んで長崎に帰っていた栗原道喜が御役医師に選ばれました。 1636年(寛永13年)長崎の有力町人の出資により出島が完成しました。 1638年(寛永15年)島原の乱が起こりました。 1638年(寛永13年)ポルトガル人が追放されオランダ人が取って代わりました。 1641年(寛永18年)オランダ商館が長崎の出島に移され鎖国が完成しました。以後安政の開国(1859年)まで218年間、出島は西欧の新しい文化や知識をもたらす唯一の窓口となりました。 1679年(延宝7年)長崎のオランダ通詞がヒポクラテスを日本に最初に紹介しました。『当流伝記要撮抜書』に西洋医学史上の重要人物と解説しました。 1682年(天和2年)長崎のオランダ通詞の本木良意が西洋の人体解剖図『人体折畳図』を翻訳し『和蘭全身内外分合図』を著しました。 1688年(元禄元年)十善寺郷に居留地「唐人館」を建設し中国人を隔離しました。 オランダ通詞の楢林鎮山(1648-1711)はパレが著した外科の本の訳本である『紅夷外科宗伝』を著わしました。 1775年(安永4年)出島の三学者(ケンペル、ツュンベリー、シーボルト)の一人ツュンベリーが出島の商館医として来日し、医学だけでなく物理学、経済学、植物学を伝授しました。 この時代に編纂された『羅葡日対訳辞典』には歯学に関する用語が掲載されています。 1803年(享和3年)アメリカ船が長崎に来て通商を求めましたが、許可されませんでした。 1804年(文化元年)ロシア使節レザノフが長崎に来航し、通商を求めました。 1808年(文化5年)イギリス艦フェートン号が長崎入港を強行しました。 1824年(文政7年)シーボルトは長崎の鳴滝に塾を開き、日本人の若い医学志望者たちに患者を前にして臨床講義を行いました。 1828年(文政11年)シーボルト事件でシーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。 1855年(安政2年)長崎に海軍伝習所を開設されました。伝習生は幕臣や各藩から集められ、勝海舟らが学びました。 1857年(安政4年)ポンペが長崎奉行所西役所の一室で医学伝習所を開設し、西洋医学の講義を始めました。 1863年(文久3年)グラバー邸が完成しました。 |
1619年(元和5年)山本玄仙が著述した『南外集要』に口に用いる薬「口中之薬之事」の項があります。 1660年(万治3年)歯科開業医の祖と呼ばれる江戸の小野玄人が最初に総入れ歯を作ったと伝えられています。 1698年(元禄11年) 琉球で高嶺徳明が、生薬を用いて全身麻酔下に口蓋裂手術を施行したといわれています。 1713年(正徳3年)江戸時代の百科事典といわれる『倭漢三才図絵』が編集されました。その中に歯に関する記述があります。 1762年(宝暦11年)林元業が『口科秘嚢』を著しました。これは当時としては珍しい日本語に訳された口中医書でした。 1792年(寛政4年)和歌山藩に医学館が創立されました。医学科目は診喉、経兪、本草、運気、外傷、内傷、婦人、小児、瘡瘍、医案の十局に分けられていて、瘡瘍科の中に口中科が置かれました。 19世紀(文化・文政時代)になると、多くの歯磨き粉が販売されました。 1840年(天保11年)山口藩に医学所が藩校としてが開設されました。学科は本道、産科、小児科、鍼治科、口中科、眼科、外科などで、独立して口中科を設けたのは山口藩の医学所だけでした。 1857年(安政4年)西洋医学の『全體新論』が邦訳され、出版されました。今までの日本の医書には全くなかった新しい知識が掲載されていました。 1859年(安政6年)アメリカ人歯科医師ヘンリー・ウィンが渡来しました。 1860年(万延元年)ウイリアム・クラーク・イーストレーキが渡来し、横浜で歯科医院を開きました。日本人が米国歯科医学に直に接触することができるようになりました。 |
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明治時代 (1868年~1912年) |
1871年モリソンが足踏みエンジンを発明しました。 1875年リッグスが歯槽膿漏には歯石を取るのが有効であることを発表しました。 1881年アメリカ医師会は口腔外科を一つの分科と認めたうえでそれが「歯科」ではなくて「医科」の一分科であることを確認しました。そのため、口腔外科医はすべて歯科医師の資格と医師の資格も有していました。 1883年ミラーはむし歯菌が歯についた食べかすに作用して酸が作られる結果、歯の表面を溶かすという「化学細菌説」を発表しました。 1891年ブラックが歯垢がむし歯の原因である事を発見しました。 20世紀に入ると、歯科医師の資格だけしか持たない口腔外科医がアメリカに続々と出現しました。 1906年イギリスのフォーソスが歯科衛生士の訓練を始め、予防処置をさせました。 1907年taggartがロスト・ワックス法でインレーを製作する方法を発表しました。これにより、金などの軟かい金属を打ち延ばしてむし歯の穴に詰なくても良くなりました。 1911年ごろ歯科医学校の教育は歯冠修復と補綴のテクニックを大いに発達させましたが、歯科医療を「物作り」と「歯の修理」に限定させ、医療とは性格の異なるものとして医療から独立させることになりました。 1916年歯科衛生士学校が創立しました。 |
<明治時代の歯科事情> 海外より外国人歯科医師が渡来し、日本に近代歯科医療が伝わりました。外国人歯科医師の中には日本で開業する者、日本人弟子をとる者が現れました。日本から海外に留学する者もいました。 国は歯科医療の重要性をあまり認識せず、医療・教育はもっぱら民間で行われました。 江戸時代から続く入歯師、歯技師などの口中科が正式な歯科医師免許を取得せずに診療していたため、歯科医師の業務を圧迫していました。明治の後半なってやっと歯科医師の身分が確立しました。 |
1868年(明治元年)医学伝習所は精得館を経て長崎病院になりました。 1869年(明治2年)長崎県が誕生しました。 1871年(明治4年)長崎県出身の長与専斎文部省の医事衛生の初代の担当責任者に任命されました。欧米を視察し、わが国の医制を立案する準備を進めました。 1876年(明治9年)代々口中医として大村藩に仕えてきた松添家の松添宝一は、長崎県の口中科医術開業免状を受け佐世保で開業し歯科医療を行いました。 1877年(明治10年)長崎病院内医学場を「長崎医学校(長崎大学医学部の前身)」と改称ししました。 1879年(明治12年)長崎医学校を県立長崎医学校としました。 1881年(明治14年)に長崎で内国勧業博覧会が開かれました。 1888年(明治21年)松添廣太は修業を終えて長崎に帰って開業しました。 1891年(明治24年)長崎医学校は西彼杵郡浦上山里村に新築移転し、附設薬学科が設けられました。 1898年(明治31年)長崎市歯科医師会が設立され松添廣太が会長になりました。 1899年(明治32年)に長崎県歯科医会が発足しましたが、数年後に自然消滅しました。 1899年(明治32年)大分県中津市で開かれた第1回九州歯科医会に長崎から松添廣太が参加しました。 1900年(明治33年)長崎で第2回九州歯科医大会が商人集会所で開かれました。 1901年(明治34年)長崎医学校は官立の長崎医学専門学校となりました。 1903年(明治36年)長崎県内に免許を持った歯科医師が14人いましたが、非歯科医師は100人を越えていました。 |
1868年(明治元年)政府はわが国の医療は西洋医学に基づくことを宣言しました。 1869年(明治2年)ウイリアム・クラーク・イーストレーキは一旦、出国し同13年に再来日し東京築地で開業しました。 1870年(明治3年)2月5日、政府から皇族・貴族に対してお歯黒禁止令が出され、それに伴い民間でも徐々に廃れ、大正時代にはほぼ完全に消えました。 1874年(明治7年)制定された医制により医術開業試験が実施され非医師の歯科医療からの排除が計られました。 1875年(明治8年)小幡英之助は医師試験の中で歯科の受験を特別に申し出て、彼だけの特別な試験を受けて、合格しました。我が国初の西洋医学に基づく「歯科医師」の第1号です。 1876年(明治9年)に瑞穂屋卯三郎という貿易商が歯科用品を輸入しました。 1881年(明治14年)に高山紀齋は『保歯新論』という歯科教科書ともいうべき著書を出版しました。 1883年(明治16年)に医術開業試験規則が制定され、歯科が専門科目になりました。 1884年(明治17年)政府は歯科開業の試験を実施し、新たに非歯科医師である入歯師の営業を始めることを厳禁しました。 1888年(明治21年)東京資生堂が初めて練り歯磨きを販売しました。 1889年(明治22年)は日本最初の近代歯科学校である高山歯科医学院が創立されました。 1898年(明治31年)九州の入歯師、口中医の鑑札を持つ人たちが、に下関市で九州歯科一致会という団体をつくり気勢を上げました。 1899年(明治32年)入歯歯技師の長井兵助を中心に「長交会」を結成しました。 1900年(明治33年)血脇守之助が高山歯科医学院を譲り受け、東京歯科医学院(東京歯科大の前身)を設立しました。 1902年(明治35年)日本歯科医学会が発足しました。 1903年(明治36年)東京帝国大学医学部に歯科学教室が開設され歯科診療を開始しました。 1906年(明治39年)歯科医師法が成立しましたが、政府は医師の歯科治療を容認していました。 1907年(明治40年)共立歯科医学校(日本歯科大の前身)が設立されました。 1907年(明治40年)「歯科医と医師の業務境界線」について大審院で判決が出され、医師は歯科医療ができる事が確認されました。 1911年(明治44年)大阪歯科医学校(大阪歯科大の前身)が設立されました。 |
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大正時代 (1912年~1926年) |
アメリカにおける歯科医学校設立の影響を受けて、ヨーロッパに続々と歯科医学校が誕生しました。この結果歯科医療が医療からの分離、独立すると同時に、口腔外科医の誕生を促すことにもなりました。 |
<大正時代の歯科事情> 国がやっと歯科医療の重要性を認識してきました。医師が歯科医療を行う事が禁止され、歯科医療が医科から独立しました。まだこの時代非医師による歯科医療が続いていました。 |
1915年(大正4年)長崎市歯科医師会の発会式が精洋亭に行われました。 1917年(大正6年)「佐世保歯科医クラブ」が結成されました。 1918年(大正7年)再び長崎県歯科医師会が設立されましたが、九州連合歯科医師会が長崎で開催され後に休眠状態になりました。 1919年(大正8年)長崎市内の開業歯科医師23人が「長崎歯科倶楽部」を設立しました。 1919年(大正8年)長崎で九州連合歯科医師会が開催されました。議題は①非医師の取締②歯科医師の向上③歯科学技術についてでした。 大正時代、長崎の正規の歯科医師と非医師(入歯師など)の比率は約1:1でした。 1925年(大正14年)長崎医学専門学校は長崎医科大学に昇格しました。 1926年(大正15年)長崎県歯科医師会が法律により強制的に設立されました。 |
1914年(大正3年)九州歯科医学校が開設されました。 1914年(大正3年)東京帝国大学医学部に歯科講座が開設されました。 1916年(大正5年)歯科医師法が改正され、医師免許者であっても特に歯科を専攻し、内務大臣の許可を受けなければ歯科専門の看板を出し、充填、補綴、矯正などを行うことができなくなりました。 1918年(大正7年)「日本連合歯科医会」は「日本連合歯科医師会」に改められました。 1919年(大正8年)に陸軍の病院である衛戊病院(陸軍病院の旧称)に歯科医師が採用されました。 1922年(大正11年)海軍病院に嘱託の身分で歯科医師採用されるようになりました。 1926年(大正15年)健康保険法が施行されました。 |
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昭和戦前 (1926年~1945年) |
<昭和戦前の歯科事情> 昭和になると歯科治療も現代と比較してかなり類似していました。各種法令が整備され、健康保険法も施行されました。 戦争の影響で、医療の国家統制が始まり、歯科材料が配給品となる一方、医師不足から一定の条件を満たせば、歯科医師に医師免許が与えられました。 医療は国家主義的な面が強くなりました。 |
1940年(昭和15年)三菱造船所で戦艦武蔵が進水しました。 1945年(昭和20年)原爆が投下されました。 |
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1928年(昭和3年)日本歯科医師会は、内務省と打ち合わせて、歯科治療の値段(歯科診療標準報酬)を決めました。 1928年(昭和3年)全国一斉に「第1回ムシ歯予防デー」が実施されました。 1928年(昭和3年)東京高等歯科医学校(現東京医科歯科大学)が設立され、歯科医師養成のための教育を国が開始しました。 1930年(昭和5年)日本歯科医師会が歯科医の暮らし向きについてアンケート調査を行いました。 1930年(昭和5年)衛生局は歯科医師が広告することができる専門科名を定めました。 1933年(昭和8年)全国一斉の歯科医勢調査が行われました。 1939年(昭和14年)金の地金の不足から、金冠代用合金として銀パラジウム合金の使用が認可されました。 1940年(昭和15年)になって歯科軍医制度が設置されました。 1941年(昭和16年)歯科材料が全て配給統制品になりました。 1942年(昭和17年)「国民医療法」が制定され、医師会・歯科医師会は国策協力機関に改変されました。医療法の基本概念は「健民・健兵」でした。 |